そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひた隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
人間失格 太宰治
心の深い部分には、変わらず、しっかりとふたをしていた。外界の出来事と、自分の感情をつなげることも、ほとんどなく、つないだときも、あくまで細々としたものだった。感情の回路を、いつでも切れる状態にして、用心しながら、少し感じたり、感じたふりをしているに過ぎなかった。
永遠の仔 天童荒太
子供のころの高熱のときの頭のなかの模様や自分が感覚だけになるようなあの体験はいまの創作につながっている
公式Instagram 川上未映子
三遊亭白鳥師匠が高座で、ある落語を聴いて、これはまるで自分のことだなぁとシンクロする、実体験と古典落語がシンクロすることが時々あるといっていた。
それと似たような感覚、感情が自分にもあって。
悟られまいと、必要以上にお道化て変わり者を演じて、楽天的に振る舞い、適度な距離を保ち、感じたふりをしてやり過ごす。やっかいな人物像が出来上がってしまった。いつしか自分自身捉えどころがなくなって、ある種の浮遊感。
それが大きな病気をして治って、また病気して治ってを2,3回繰り返した後、あれっ?何か軽くなった?少し抜けた感じを身体の中枢が覚え、指先を捉えはじめた。川上未映子さんが云う、高熱の時に自分が感覚だけになるような体験は、幼少期からずーっと感じていて。これは自分だけのものなのかどうなのか、分からずにいた。うまく言葉に出きないまま過ごしていたけれど、この文章を見つけたときに落ち着いた。
今、その感覚を大切にしている。患者さんの体に触れた時の感覚。
冷たい、あたたかい、軽い、重い、あるいは滑っている。舌診、脈診、腹診から背候診。
来週から島根の中山間地域へのフィールドワーク。
目下、ちいけん(島根大学医学部地域医療研究会)関西メンバーと予習中。
彼らとは、約15年前に後楽園や関西のイベント等で握手をしていた。
そんな彼らと今、同じ机で地域医療について考えている。不思議な感覚だ。なかなかの経験ではないだろうか。あの当時は、予想もできなかった。
面白がるっていう表現はおかしい気もするが、やはり一寸おかしい。ふしぎだ。何だかどうもくすぐったい。
次第に時間の流れを感じ、なんとなく行く先が示され、少しの恥じらいを背負いながら進んでいる。
古都に導かれながら。
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